お金を使う ~ その権利と義務

私なんか、いやいやながら働いています。
いつも働くのがイヤです。会社に行く前から、「行きたくねーなー」。
家を出たとたん、「帰りてー」。
会社で仲間が午前中で、「もう帰っていいかな?」とか冗談で言っていて
「早い、早いよ。(カイ・シデン風)」などとつっこんでいるのですが
わたしなんか救いがたいほど、早いです。

なんで働くか。お金がほしいからにほかなりません。

お金っていいですよね。いろんなモノやサービスに変えることができる。
欲しくてたまりません。たくさん。腐らないし。

じゃあ、お金があれば、働かないか?と考えると、どうかなあ。

思うのですが、なんて私は恵まれているのかと。
少しのお金で
・魔法のような「電気」を使うことができる
・レバーを倒せば好きなだけ水がつかえる
・スイッチを操作すれば火が使える、あるいはそれを意識せずにお湯が使える
なんてことができるわけです。
インフラだけでも、十分すごいです。
「ぷち」っとライトオンするだけで、その裏にはどれほどの人の労働、
汗、涙、努力、思い、犠牲、成功、失敗、時間があるかと思うと
本当にそう思います。

なぜこんなにも安いのか?
フクザツな社会の仕組みのおかげとしか思えません。

なので、いくらお金があろうと、ただそれを使うだけでは
ダメ、というか、なんというか、キッヅサイズだと思います。

確かにお金志向でこの世の中は回っているようにも見えますが
それって、みんなが「働いている」and/or「働きたい」という
ことが前提になっているんだと思います。
そういう社会的責任を果たした上で、社会の仕組みを利用する、
お金を使うことができるのではないかと思うのです。

つまりは、働かないなら、無人島にでもいくっきゃないっちゃ。

社会的責任を果たしてこそ、お金を使う権利が得られる。
だから、お金を使う以上、お金がなくなるまで、働くしかないと。
ひいてはこの社会にいる以上、社会的責任を負うわけです。
なんか普通な結論ですが。

簡単に言うと、要はお金は「気持ち」と言えます。
ひいては「Love」、「愛」と言えます。
愛とは与え、与えられるものです。
その愛の循環が、社会の仕組みです。
愛は一度に多く与えたからと言って、多く与えられたからと言って
そのサイクルを止めることはできません。
常に与え、与えられる状態になければ持続可能ではないと思います。
社会のサイクルもやはり同じです。

お金を使う権利を得るために、働きましょう。

なんて働くための自己暗示ですが。