新台入替 チルチルミチルの青いパチンコ台

パチンコ、パチスロは学生の頃にちょっとやっていた。
思い返すに、いくら時間があるにせよ、もちっとマシなことをやっていればと後悔する。
たまに話のネタになること以外、一切、何の役にも立ちはしない。
 
実際、パチンコをやっている時も、それほど楽しかったのかと言えば、そうでもなかったような気がする。
やるからには勝ちたいので、自分なりにどうすれば勝てるかを考え、こうしていれば恐らく確率統計上、
勝てるだろうという作戦を立て、それを忠実に実行していた。
作戦は、作戦というほどのものではないか。その内容は「いい台で玉がある限り打ち続ける」。ただ、それだけ。
 
パチンコでいうと、4円で玉を買って、2.5円で売るのだから、当り前の話だ。
玉が1時間で1割増えるとすると、
開始時:-1.5円
X時間後:開始時+(2.5*0.1)*X
となり、元が取れるのは、X時間後=0になる時、すなわち6時間後が損益分岐点となり、
その後は続ければ続けるほど利益は増大するということになる。
 
1割増えるとして、だ。実際のところ、そんな台は存在しないことはないにせよ、そいつの前に座れるか
どうかということも考えると、まあ、ないと言っても過言ではないだろう。
開店前から並んだりしてその幸運に巡り合う可能性を高めたとして、「お、これはいいな」という台で
多分、俺様の概算によると105%くらいの出玉率だったような気がする。これは打ってみれば一目瞭然で、
玉がポンポンスタートチャッカーに入る台で、当然画面は常に抽選中で、1000円くらい打っている間に
数回、少なくとも2,3回は止め打ち(スタートチャッカーに玉が入り過ぎて、それ以上打っても無駄な状態)
をやるくらいのものだ。
パチンコを打ったことのある人なら分かるだろうが、そんな台に座れることは滅多にない。
その滅多にない台に座ったところで、出玉率は5%なのだから、6時間座ったところで、5%しか増えない
ことになり、損益分岐点までは12時間座らなければならない。
※営業時間を考えると、この時点で必負は避けられないともいえる。
12時間座るのだ。とてもじゃないが、耐えられない。
それを踏まえて打ちに行くと、出ないと当然徒労感に襲われるが、出たら出たで、打ち続けなければならない
という義務が発生するので、嬉しいものの、面倒だなあ、と思ったものだ。
なんとかその無駄な時間を有効に使おうと、ペーパーバッグをめくりながら打っていたこともあった。
無駄な時間だと。
パチンコという娯楽の最中でありながら、無駄な時間がある。
もちろんそれ自体が無駄ではあるのだが、それの中に娯楽にもならない無駄な時間が存在する。
なぜか。
楽しさ、幸せ等は相対的であることは言うまでもないことで、苦しさがあるからこそ、楽しさがある。
当たりを待っている時間は、その苦しさなのであって、その無駄な時間は、まあ、当たった時の
楽しさをはぐくむ土壌である訳だ。
これまた、なんとも、しようがない。
 
他の娯楽、ゲームでも、例えばドラゴンクエスト等のロールプレイイングゲームでも、レベルを
上げるため、アイテムをゲットするため等、なんのせ強くなるための修行みたいな時間がそれに
あたる。非常にめんどくさい。
あんまり単調になるとゲーマーがやめちまうかもしれないので、滅多に会えないお宝メタルスライム
なんかが用意されていて、射幸心をあおるようなかたちで、引き止めていたりする。
で、続けたりして、クリアしたりするのだが、そのゲームを完了したと決めた時、それはすべて
初期化される。あんな時間なんか、なかったかのように。
もはや、なんとも、しようがない。
 
これらに共通するどうしようもなさはなんなんだろう。
無駄か、退廃か、堕落か。
というよりも「全部用意されている」ところだ。
楽しさを、苦しさを、考えることを、なにもかも。
そして、そこに用意された、誰にでも実行可能な反復作業は、熟練することもなく、
やめちまえば何一つ残らない。のはなんでかというと、それもやはり、用意されているからだ。
用意されたフィールドでの振る舞いは、自分の意思で行っているつもりでも、それは
用意されたパターンの振る舞いでしかない。それを超えることはできない。
何をやっても、何を感じても、全てが計算ずく。
何を考えても無駄。結局既定路線が一番効率がいい。何も変わらない。
この閉塞感。まさに、奴隷ではないか。
自由と時間を不要とする行為だ。
 
どんどん頭が悪くなる。
街を歩けば広告だらけ。
これがおいしい。これが楽しい。これが美しい。これが便利。
だから利用しなさい。お金を出しなさい。
全部用意してあげるから、お金だけ用意しなさい。
 
テレビなどそれの垂れ流し。
ネットも同様。結局はカネを使えということ。
 
カネで買う、用意されたものから得られるものは少ない。
特に用意された世界に入りこむことから得られることは、何もない。
 
我がベビーを見ていても思う。
既製のおもちゃ等、すぐに飽きる。というか、規定の遊び方なんかで遊ばない。
ひっくり返したり、振り回したり、投げたり。
おもちゃ入れはひっくり返すだけで、中のおもちゃでは遊ばなかったり。
リモコンやCDや携帯、パソコンをいじくりまわしたり。
おもちゃなんかなんでもいいのだ。
それを使ってどうやって楽しむかは、自分で決める。
おもちゃなんか買って喜んでいるのは親だけであって、そんなことよりもベビーは
遊ぶコンディションを重要視している。どこで遊ぶのか、誰と遊ぶのか。
一番楽しいのは、似たようなベビーとにらめっこしている時。
聞いたこともないような嬌声を上げる。
 
娯楽とは何か。
 
俺は表現だと思う。頭の中を現実に反映させることだと思う。
そのための訓練、思考等は全て宝物であり、その宝物を現実のものとするのだ。
それはパチンコ玉じゃない。