ネットの時間が第一

先日の日曜日、途中まで記事を書いていたら、ベビーがパソコンのリセットスイッチを押した。
パソコンのリセットスイッチは不要だとは思っていたが、こんなことになるとは。
痛い目にあったときに対策しておかないと、のど元過ぎれば熱さ忘れるとかで、また先延ばしにして
そのうち忘れるかもしれないので、きっちりシールで押下不可とした。
さらに電源ボタンを押しても「何もしない」オプションを設定した。
挙句、電源ボタンもシールした。
ちょっこし抵抗があるので、ベビーが何気に押しても、まあ、起動したりはしないだろう。
ってことは、やはり、ベビーが動きまわる頃に対策をとるべきだった。
電気ケトルで火傷するベビーがいるとニュースで見た時、そんな対策も取れないのかと、呆れた俺は
更生しなければならない。
 
何について書いていたかというと、ネットと現実では公開する内容が異なるということだ。
現実では何かしら情報を公開、伝達する際に、リリースしたい情報以外にも様々な情報を併せて
リリースしなければならない。
ネットでは、リリースしたい情報だけ発信することができる。公開範囲も設定できる。
 
私がギターを弾いて河原で叫んでいたとして、それは音だけではなく、顔や服や楽器等の見た目や、
その場という位置情報、なんなら俺から発するつばや口臭、体臭すらも発信せざるを得ない。
そして公開範囲も設定できないので、顔見知りの人達に見られることもあるかも知れない。
○○な人に石でも投げられるかもしれない。
私は殺されるかもしれない。
しかし、それを補ってあまりある価値が、オフラインにはある。
アウトドアで、エージャンのデカイ音を伴奏に、叫ぶ快感。
そして、誰かが聴いてくれているかもしれない、この気持ちよさを共有できるかもしれないという期待。
あの「場」の感覚は、それだけじゃない。うまく書けないが、かけがえのないものだ。
「体験」でなければ伝わらない。
 
思うにネットでは、伝えたい情報のみ公開されていることで、受け手側はその「場」を脳内で構築している
のではないだろうか。オンリーワンのマイワールドを展開し、その情報不足を補っているのではないか。
 
ネットの匿名性は今だに話題になるが、俺が思うに、例え匿名であったとしても、そのアカウントなりでの
情報の蓄積は人格を形成しうる。
確かに見たこともなく、住所、性別、氏名、年齢等は不明であったとしても、そのアカウントから発信される
情報には、過去の蓄積による、その情報自体ではない、ノイズを含んだバックグラウンドが形成される。
蓄積されれば蓄積されるほど、それは「場」になっていく。
顔見知りのネットの情報がもつ「場」のように。
 
情報の多さというよりは、継続性が重要だ。
時間が「場」なのかもしれない。
 
 
 
今回は一回消されたこともあって思いつくままネタを並べた。
ちょっと踏み込みたいネタもあったが、とりあえず並べたのだ。
忘れないうちに。