自己反論→下には下がいると思いたまふことなかれ ~ TV2.0

以前「クイズヘキサゴン」に見られる、「下」を見ることによる「安心」
の獲得の構図を書きました。

今回はその反論というか、別の視点からもう一度見てみようと思います。

先の記事にもあげましたが、以下の文章を参考にします。
「プロの芸がうますぎると、素人は舞台にあがれない。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20080307/149343/

出演者はあえて「おバカ」に身をやつし、視聴者に考える余地を与える。
また何かを感じさせる、行動させる余地を与える。
視聴者は「何か」を「感じ」、「何か」を「おこなう」かも知れません。

やつす:目立たないように姿を変える。また、みすぼらしい姿にする。(Yahoo!国語辞書)
やつすという行為は、日本の茶道、「詫び」に直結する行為です。
茶道では、あえて茶室や道具をやつし、それを「詫びる」形で最高の
作法で心で、もてなすという形をとるそうです。
「おバカ」出演者たちもおそらくは、そのような「道」なのではないでしょうか?
あえて「能力」をやつし、視聴者を最高の魅力と心でもてなす。
考えようによっては、ワビの効いた、日本的な番組かも知れません。

さらに日本文化に言及すると、枯山水という日本を代表する庭園様式があります。
・「水」を表現するために、あえて「水」を庭に引かない。
・石ころをならべて、「水」を表現する。
「水」を表現するのに、「水」を使わないというのは、真逆の表現手法です。
「逆」、「引き算」、「負」の表現方法です。
--黒い炭酸水のCMで、砂漠の中で、炭酸水を見つける、、、ようなCMがあったような。
--見つける設定でなければ、砂漠の中をさまよう人は、「水(飲み物)」表現するに十分な
--枯山水式CMといえます。
直接的な表現はないため、受け手(見る人)がその意味を理解し、感じる必要が
あります。その「受け手」側の感性、理解がその石ころに「水」を見出すのです。
作り手側と受け手側の「庭園」を通した、ある意味「インタラクディブ」(相互作用)な
まさに現代風に言うと「庭園 ver2.0」となると思います。

クイズヘキサゴン」にあてはめると、
・「知識」を表現するために、あえて「知識の具現者(識者)」を出演させない。
・「おバカ」ならべて、「知識」を表現する。
という論理にはならないでしょうか?
そこから「知識」を感じ、見出すのは、、、正直ちょっとつらいですが、
視聴者に考えさせるという点では、「インタラクティブ」な部分もあると思います。

前回の記事では、「下」に見て安心する、などと書きましたが
別の視点からすると、視聴者に「知識」を理解し、感じさせるないようだと
とることができるかもしれません。
--まあ、作り手は絶対そんなことは考えていないでしょうが、、、
--受け手が自由に解釈できるところがインタラクティブなんで、、、

これからのTVのありかたが見えてくるような気がします。
あえて内容を「やつし」、視聴者が理解、解釈、感じる余地を与える。
もちろん「やつし」はもてなしをも意図していることが重要です。
またそのOUTPUT、理解、感じた内容をフィードバックできるような
視聴者参加の仕組みを構築する。

ニュース番組で想像してみてください。
幼稚なキャスターが、ニュースをたどたどしく伝え
稚拙なコメントをおこなっている様を。
誰でも、ニュースを見ない人でも、何か言いたくなって、「俺ならこう思う」とか
「私がキャスターを変わりたい。努力する!」とか「こんな意見を投稿しよう」とか
視聴者が受け身ではなく、能動的に作り手に変わろうとするその様を。

これってまさにTV2.0の具現!

大風呂敷をひろげるだけひろげてみました。

追加参考NB記事(NBばっかですね)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080312/149856/
消えない芸人は空気が読める~『笑いの現場』
ラサール石井著(評:柴田雄大