修行とアイコン

新年あけました。
年末年始のcheap tripも終わり、新年早々これから何を希望に生きていけばよいのでしょうか。
神様、お導きを。
という下心で初詣に行きはしたのだが、やはりなんの啓示もなかった。
まだその時ではないのだろう。
修行が足りないのだ。
 
修行といえば、どうも山に篭るというイメージが強い。
打たれるべき滝がそこにあるから?
水に打たれたいだけならば、荒天の元雨どいの下にでも行けば事足りるだろうし、
寒い思いをしたいのならば、キムチ用の冷蔵庫にでも入ればいいのだろう。
滝じゃねえ。
温泉で打たせ湯に激しく打ちのめされながら思った。
これじゃねえと。
 
修行とは「人との関わりを絶つ」ことにその本質があるのだと思う。
人の手が入ったもの、人が関わったもの、人が考えたことから遠ざかる。
己の心のみで生きる。
その実現場所としての「山」なのだ。
生きるために必要な水や食料も自分次第でなんとかなる。なんとか生きていける。
かもしれない。
無人島ほど大仰でもないし、荒野のど真ん中よりもサヴァイヴァルしやすい。いわんや砂漠をや。
そんな「山」に抱かれた日本に住む人々にとって、修行と言えばやはり山以外にはありえない。
 
人との関わりを絶つ。
Do it all yourself.
木の枝が一本落ちていれば、それを杖と見ることもできるだろうし、釣り竿と見ることもできる。
燃料と見ることもできるだろうし、「加工する」といったスコープを通せば、万華鏡のごとく使い道は広がる。
人が用意した、考えた、見立てたハウツーサバイバルをこなすのではなく、自らその道を切り開く。
自分で考えて。
 
技術の進歩によって職業の専門性は高まるばかり。
と同時に専門外の事は何も考えなくてもできるようになってきている。
スイッチを押せば明かりはつくし、蛇口をひねれば水は出る。
必要な項目を埋めればクレジットカードが作れるだろうし、そのマークのついたお店で
それを出せば何でも買える。
パソコン、インターネットを使えば、いつでもどこからでも買える。
パソコン。
画面を見れば、考えなくても使えるようなアイコンだらけ。
誰が説明書を読むだろうか。
そう。
リアルもそうではないか。
この世はアイコンで満ち溢れている。
考えなくても生きていけるようにアイコンはhere,there,everywhere.
そうでないと考えない人から苦情が来る。
「分かりにくい」と。
 
…修行が足りねえんだよ。
 
神様はアイコンなど啓示してはくれないのだ。